■目次
職場で争わず、人と接する方法 「誠信」の精神
/上田正昭氏(京都大学名誉教授)
voice icon=”

はじめに
こんにちは。影谷(かげたに)です。
本日は我が師匠、山折哲雄級の日本の文化人である上田正昭さんとの交流のお話をさせていただきます。
巷のニュースではコロナウィルスによる「オリンピック中止」が世界から叫ばれています。
特に隣国である韓国からは「ネガティブ活動」とも見られる扇動があり、『反日本』の主観が韓国国民から感じられます。
現在、日本と韓国の政治的外交関係は冷え切っていますが、そんな中オリンピック開催にまで国民感情をぶつけてくるところがとても残念でなりません。
歴史的にみても友好関係のあった親しい隣国・「韓国」。
今の韓国との関係を思うと、上田先生の「誠信」の精神をお伝えせずにいられません。
本日はこんなお悩みを解決します。
✔本記事の内容
✔ 争わずに人と接する方法
✔ 「誠信」の精神
✔記事の信頼性

この記事を書いている私は、過去に赤字経営だった事務所経営を黒字化し、年商2億円を売り上げていました。
現在も事業イベントプロデュースのビジネスに携わる傍ら、日本中の知識人から学んだ経営術を伝える当ブログを運営しています。
特に対面営業と経営実務に関することを追求するのが好きです。
上田正昭
うえだまさあき。日本の歴史学者、小幡神社宮司、歌人。京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授、西北大学名誉教授。専攻は日本古代史。勲二等瑞宝章。修交勲章崇禮章。従四位。
ご紹介することすらもおこがましいのですが、上田先生は本当に偉人です。
みなさんにとってはあまり馴染みのない方だとは思いますが、この日本の文化的権威といっても過言ではない方なのです。
文化芸能の仕事に携わる私が上田先生と交流を持たせていただいたのは奇跡だったと思います。
懐の深い、知識の泉のような方でした。
偉い先生なのに偉ぶることなく、当時20代であった私でも気さくに京都府亀岡市のご自宅でお会いいただいたことが懐かしく思います。
その上田先生の逸話は数多くありますが、知らない方のために簡単ではありますが、列記させていただきます。
◆ 「渡来人」という言葉を作った。
私達が古代の日本の歴史を学ぶ時、中国・朝鮮半島から日本(大和)に渡ってきた人のことを渡来人といいますが、渡来人という言葉の前は日本書紀の引用により「帰化人」という言葉を使っていたそうです。これまで日本の教科書はこの「帰化人」という言葉で統一されていましたが、上田先生は古事記などの書物に「帰化」という言葉はなく、古事記の一節にある新羅人天日矛(あめのひぼこ)が来たことを『渡来』という表記があることから「渡来人」という名を提言し、現在では渡来人いう名で統一されました。
この考えは日本にある皇国史観からくる誤った主観を正そうという重大な提言であったのですが、当時この提言の反発する声も多くあり、政府である文部省からも苦言と呈されるほどであったにも関わらず、上田先生はその反発に屈することもなく、正しい「史観」を述べたと話されていました。
◆ 司馬遼太郎に歴史観を植え付けた
司馬遼太郎といえば「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「国盗り物語」など多数の作品を生み出した文豪です。
その司馬さんと上田先生はとある雑誌の企画対談で連載を持たれていました。その時の交流により上田先生の歴史観や価値観が司馬さんに大きな影響を与え、ライフワーク作品である「街道をゆく」に色濃く上田イズムが刷り込まれています。
余談ではありますが過去の私の記事でも司馬遼太郎さんとの思い出を掲載させていただきましたのであわせてご覧ください。
◆ 現上皇(平成天皇)から唯一、先生と呼ばれた存在
上田先生は京都・亀岡市ご自宅がありました。
当時125代天皇である平成天皇、現在の上皇明仁様が京都御所へお越しになるとき、上田先生を何度か御所へお招きになってご馳走をされたそうです。
上田先生をお招きするのだからと、明仁様はわざわざ皇居から料理人を連れて京都御所へお入りになり、上田先生をもてなしたのだそうですが、お出迎えは美智子皇后が自らされたとか。
また当時の天皇が唯一「先生」と付けて呼ぶのは、どんな大学教授をおいても上田先生だけだったということでした。

「誠信」の精神
日本と韓国・朝鮮半島の関係を語る上で、歴史上の出来事は切っても切り離せないでしょう。
古くは天皇の先祖は渡来人だし、白村江の戦い、百済との関係・・・日本と韓国は深く関わり合いがあります。
そして重要な出来事、それは『朝鮮通信使』です。
秀吉の朝鮮侵略により韓国と日本の関係が悪化した時、時の権力者「徳川家康」は国交回復のための使者を朝鮮へ送ります。
上田先生はその外交活動で活躍した「雨森芳洲」という人物に注目します。
この雨森芳洲こそが埋もれた歴史から上田先生が見出した人物でした。
雨森芳洲はその対馬藩に22歳のときお抱え儒学者として仕えます。それからというもの25歳で長崎に留学、中国語を独学でマスター、38歳で釜山に留学し朝鮮語もマスター。54歳まで外交の補佐役、さらに釜山の倭館に赴任するなど、日本と朝鮮の外交の最前線で役目を果たした秀才です。
芳洲の出身は県・高月町。
その高月町に眠っていた古文書「交隣提醒(こうりんていせい)」を上田先生は研究し、芳洲の人物像に触れます。
そこで上田先生は、『雨森芳洲は「誠信」の精神で人と人とを繋ぐ天才だった』と教えてくれました。
誠信とは「(外交でたいせつなことは)互いに欺かず、争わず、真実をもって交際すること」ということ。
その真摯な姿勢があったからこそ国交は回復し、江戸幕府は朝鮮との関係を保ちつつ長い歴史を刻めたのだと感じます。
また芳洲が行った外交政策に限らず、現代に生きる私達がこの「誠信」の心を持っていれば、今の国際情勢だけでなく、身の回りの対人関係においても大きく前進することもあると思います。
この『誠信』の言葉をぜひ心に刻んでいただければ、幸いです。

上田先生は2016年3月に88歳でご逝去されました。
訃報の知らせを聞いた時、まさに「巨星落つ、また一つ日本の文化人が散った」と感じてしまいました。
しかし、上田先生の心はまさに「誠信」の心として今もなお、その影響を与えた人たちに伝わっていることでしょう。
あなたがもし上田先生の言葉に共鳴してくれたなら、上田イズムも後世に伝わるはずです。
「黄金の知恵袋」
本日もご覧いただき、誠にありがとうございました。